僕が村上春樹の小説を初めて読んだのは、当時のベストセラー「ノルウェイの森」だった。
自伝的な要素を含んだ素晴らしい小説だと思うんだけど、僕が知っている人(特に女性)の中には
「主人公が煮え切らない。最後スカッと終わらなくてもやもやする」
などといういかにも女性らしい(というのは偏見ですね)理由で、その後村上作品から遠ざかってしまった人が少なくない。
たしかに「ノルウェイの森」は村上作品の中でも、ある一面をかなりエクストリームに表現したような小説だから、実は最初の一冊には向いていない(その分、試金石には適しているかもだけど)かもしれない。小説をあまり読みつけていない人にとっては尚更だ。
というわけで、実は短編集
が村上最初の一冊におすすめなんじゃないかと愚考します。
(ちなみに僕は「ノルウェイの森」で村上門を開け、この「カンガルー日和」で一歩を踏み出し、続いて「村上朝日堂」で沼にはまったというルートである)
「カンガルー日和」には本当に短い短編(馬から落馬してるな)が23編収録されていて、多数収録されている分ある程度玉石混交というか
「捨て曲なしの偉大なアルバム!」
という感じではないけど、一度はそんなに響かなかった作品も幾年か経って読み返してみると違った味わいを発見できるような、いわゆる「スルメ短編集」だと思う。
その中でも抜群の短さとキャッチーさを誇るのが、2作目に収録されている
「4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて」
で、僕は初めて読んだ後に感動でしばらく放心してしまったくらい。構成といい語り口といいシチュエーションといい、村上春樹のエッセンスが詰まっていると思う。
(今読み返してみたら(本当にさくっと読めるんです)シェル・シルヴァスタインの「ぼくを探しに」を彷彿とさせるところもあるななんて思いました)
あらすじはほぼタイトルのとおりで
「4月のある晴れた日に32才の男が原宿の裏通りを歩いていると、自分にとって100パーセントの女の子(20代後半と思しき)が向こうから歩いてくるのが見えて、どう話しかけようか考えているうちにすれ違い、振り返った時には彼女の姿は雑踏の中に消えていた」
というもので、これだけだとなんだかわからないですね。(なので読んでほしいぞ)
一部引用すると僕が特に共感したのは
しかし100パーセントの女の子をタイプファイ(類型化←引用者注)する事なんて誰にもできない。彼女の鼻がどんな格好をしていたかなんて、ぼくには絶対に思い出せない。いや、鼻があったのかどうかさえうまく思い出せない。
村上春樹「4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて」
というくだりで、たしかに鼻はなかったかもしれないよな…じゃなくて(笑うところだ)
100パーセントの相手というのはいくつもの構成要素の総合点としての100パーセントではなくて
(もしそうだったらその要素(例えばまあ、パーツの造作とか若さとか)を失った途端にその人は100パーセントではなくなってしまう。そんな可能性を孕んだものは本当の100パーセントじゃないですよね)
ただただ総体的に、決定論的に100パーセントであるというか、どうしようもなく無条件に、村上風にいうと留保なく、100パーセントであるという圧倒感なんだよなーというところです。
たとえ何かが変わろうと、99パーセント以下になることなく、可塑的ににゅるんと100パーセントを維持する。そういうの素敵じゃないですか!(何を熱くなっているんだ)
ふう…。でも「100パーセントだと思ってたら、実はマイナス100パーセントでした」みたいなケースも往々にしてあるみたいなので、そういうときはさくっと前を向いて切り替えるのがいいですね。
「ぼくを探しに」の主人公みたいにね。
あー、もう一度読みたくなった。
よし読もう!(以下エンドレス)