シンエヴァ 観ました。

シンエヴァ、僕は公開初日の初回、IMAXの最前列ど真ん中という気合いが入りまくって恥ずかしいほどの環境で観ました。

結果、Qを劇場で観た時の怒り(苦笑)はどこへやら、タイトル後の展開から涙腺を緩まされ、エンタメ方向にもテーマ方向にもド納得な内容で、相当なカタルシスをもって劇場を後にしました。四半世紀という年月をもって、何度も始まり完結する物語など他を探してもなかなかなく、そのスケールは絶後のものだと思いますが、テーマ的にも単なるの旧劇のスケールアップした繰り返しではなく、しかし全くの別物でもなく、正当な続編として完結しているところが素晴らしいです。以下、ネタバレとともに

「ぼくがかいしゃくした、しんえゔぁのかんそう

を書きたいと思います。

そもそも僕にとって旧劇のエヴァは、劇中の詳細な設定は割とどうでもよく、とどのつまり

「未成熟な男の子が、自分を否定せず包み込んでくれる母親的なモラトリアム世界を脱し、現実の異性に初めて本気で接触するも拒絶されたところで終わる話」

でした。男の子はもちろんシンジくんで、母親のクローンである綾波レイに象徴される、他者との境界や拒絶される事のないモラトリアム的な世界の実現としての人類補完計画、それを自分の意志で中断し(それは生きるという選択にも見えますね)現実の異性(惣流・アスカ・ラングレー)と浜辺に二人流れつき、本気の接触(首を絞める)を試みるもそれも完遂できず、ぐずぐずしてたら「気持ちわるい」と拒絶され、終劇になる。

拒絶されたが、現実的な一歩を踏み出せたという希望のある、でも公開時期の世相もあり世紀末感のある、好きな終わり方でした。で、今回はどうか。

なんと旧劇では現実の異性だと思っていたアスカも、今回はクローンであった事が明かされます。だから、惣流→式波と名前が変わっていたんですかね! そしてそのアスカは(昔はシンジが好きだったという告白はありつつも)共通の同級生であるケンケンとくっついてしまいます。

思うに、シンジにとって本格的な初恋であったアスカとの関係も、うまくはいかなかった。これこそが真実と思い詰めたものも、14年の歳月の中で、よくある通過儀礼的な出会いと別れ、交換可能なクローンに変わってしまったという事なのだと解釈しました。現実世界でも、本格的な初恋が継続的に成就する事は稀で(また成就してしまったら人生の機能としての「初恋」とはまた違ったものになります)人はそのあとを生きていく事になります。

つまり旧劇では「母という原型との別離と初の異性との出会い」が描かれ、今回は「初恋というもうひとつの原型との別離、それによる自分の人生は特別じゃないという気づきと、これから」が描かれているのだと感じました。

で、新劇場版から新たに登場したキャラクター、マリと現実の未来に向かっていくという暗示で物語は終わりますが、これは「母親」や「初恋」、父との対決や人の心を持ち始めた綾波そっくりさんとの交流における「親を超える」という数々の原型、大人になるための通過儀礼を超えて、マリという作中でも歳を取らない理由が明かされない、なんだかメタなキャラクターとくっつくという

「原型を超えたあとの、特別ではない平凡な材料の現実を特別なものにするのは、自分の意志(ヴィレですね)によってしかできないのよん。それこそが新世紀なのよん」

というメッセージに感じられ、とても納得のいくものでした。そしてマリが庵野監督の奥さんになぞらえられているんだろうなということも、なんかジョン&ヨーコ的に、ロック的に「ええやん!」と思わざるをえない。僕の好きなもの全部入りやん!という感じでした。

しかし今回のシンジくんの成長っぷりはすごいですよね。この急成長の布石としてのQの衝撃だったのかと思うと、とても納得します(が、それでももうちょっとなんとかならんかったのかという気持ちは今もありますが…)。終盤の父親との対決(というか、もはやシンジが相手をしてあげているような)や、第三村で人間性を獲得していく綾波の描写は「親とて完璧ではない人間である」という、人の成長にとって不可欠な気づきが込められていたように思います。旧劇ではそこは詳しく描かれていなかったと思うので(「ユイに会いたかっただけだよー、すまなかったなシンジ」みたいなゲンドウの独白はありましたが、それをシンジが知り、許すという描写はなかったはず)時を経た今ならではのアップデートを感じますね。

他に気に入ったところは

・自分たちの生活を一変させた大災害である二アサードインパクトを、「ニアサー」と略し、相対化し、形骸化させて強く生きていく人々の感覚がとてもリアルに感じました。昔はその相対化の速度(1995/1/17の兵庫県南部地震も、数日後にはメディアにより「阪神大震災」という、よりキャッチーな名前で相対化されたような)を当事者感覚の欠落と感じて当惑しましたが、今はそれも好ましくも感じます。喉元を過ぎたら熱さは(ある程度)忘れた方がいいんですよね。

・第二次大戦後の日本を彷彿とさせる第三村の描写。いきなり「この世界の片隅に」になったのかと思いました。そしてなんか、でも結界の外はL結界密度(でしたっけ?)がやばいんだぜ、的なバランスはやはり東日本震災後の復興を想起させます。もちろん大変なわけですが、その大変さ(マイナスからゼロ、プラスに向かっていく人々のちから)の中に抗えない輝きがあるということもまた本当なんですよね。

映像美や演出や撮影技法など、純粋にアニメーションという表現の面白さを追求しているところも、これからを感じて良かったです。そういう、開かれた終わり方が観賞後の清々しさにつながっているのだと思います。

とか書いてたらもう一度観たくなってきた。 人生初の劇場複数鑑賞、あると思います! な今日この頃でした。