その1(4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて)はこちら
村上春樹の短編集「カンガルー日和」からもう一個おすすめ。
あしか祭り
あらすじ…新宿のバーでたまたま隣に座ったあしかに名刺を渡した男が、
後日そのあしかの友人のあしかに自宅を訪問され、
あしか祭りへの「象徴的(精神的)援助」を迫られる。
終始マイペースで粘着的に「あしかレトリック」を展開するあしかと、迷惑しながらも体裁を繕う主人公との温度差が
「確かにこういう事あるよなあ」
という共感を呼びます。
(ちなみに長編1Q84でもNHKの集金係や宗教勧誘による訪問が取り上げられてて、村上さんはこの種の「招かれざる客」に何かの思い入れがあるのかもしれない。主夫的要素の強い生活を送った事もあるみたいなので、そういう経験が多数あったのかも)
恰幅のいいあしかに居座られて、麦茶を出す主人公を想像すると、何か藤子・F・不二雄のSF短編漫画みたいだ。(征地球論のイメージかな)
「なんであしかなの!? 家は濡れないの!?」
と引っかかる人もいるかもですが、村上春樹を読んでいくとそれこそ「かえるくん」や「鼠男」なんてわさわさ出てくるので、そのうち慣れます。
思えばこの話は「象徴性の海で象徴を集めて生きている生き物の象徴であるあしかが象徴的援助を求める」という象徴の無限ループのようになっていて、それこそ敢えてくそマジメに解釈するなら、村上春樹氏が抵抗するところの「システム」とか「悪」みたいなところまで話を飛躍させる事も可能かもしれないけど、そこまで考えちゃうとそれこそもうあしかの思うツボなんでしょう。適当に流すべきなんです。なんせ相手はあしかですから。
それで結局の所象徴に対して極めて物質的な(現世的な)解決をみせるあたり、皮肉が効いてて小気味よい。
(と思ったんだけど、よく考えると僕が物質的(現世的)と感じたものがすでに象徴で出来ている事に気づいて…いかんいかん「あしかレトリック」に毒されている)
最後にぼくの好きなところを引用すると
「あしかという動物は相手のことをたいてい先生と呼ぶ。」
村上春樹「あしか祭り」より引用
という一文で、あしかの慇懃無礼さが滲み出てます。でもどこか憎めないんだよね。あしかみたいに生きられたら楽だろうなー!