歌詞を忘れること 忘れ編2

昨日に引き続き忘れる事について。

昔はロックミュージシャンがライブ中に歌詞を間違えたり、歌詞を見ながら歌ったりすることが信じられなかった。カバー曲や人が書いたものならまだしも、心血注いで書いた自分の歌詞を間違うなんて!!

それはもうアイデンティティの崩壊である。
アイゼンハワー大統領である。
カイゼンカイゼンのトヨタ式経営である(特に意味はない)

いやもう、非常に純粋な少年の僕であったので「真面目に音楽やってらっしゃるんですか!」と小一時(こいっとき)問い詰めたくなるような気分であった。
僕なら…!僕であるならば…、きっと幾つになっても歌詞を忘れることなんてないであろう。だって心を書いているんだ!自分の心を見失うはずがないじゃないか!!

…はいー!残念ー! 見失います! 

歌詞、忘れます! 自分の歌詞をがっつり見ながら歌います!

君が覚えていられるのはまだ曲も心も総数が少ないからなんだよっ!君が糾弾したその歌手さんは何十倍もの奥行きと量から出し入れされているんだよっ!だいたい自分の歌詞も他人のものも世に出てしまえば違いはなく、君も昔

「昨日の自分、一瞬前の自分なんて他人でしょう」

shame "ANOTHER"より

と喝破しておったじゃないか。

「それを繋ぐものを心など名付けてみようか」

shame "ANOTHER"より

とも言ってたけど、惜しい!それをつなぐ心も実は頼りないです!過去と現在の自分をつないでくれるのは結局

「他人の目」

くらいなんです!

だから君がもし戸籍もなく、人里離れた山奥で誰の目にも触れず暮らしていたとしたら、過去と現在の自分をつないでくれるのは自分の心だけになっちゃって、その心が自分を見つめなくなったら(今の僕みたいに忘れっぽくなったら)まるでもう観測前の量子状態です。シュレディンガーの猫なんです。人類補完計画発動!です。

いささか話が飛びすぎたけど、だからさ、歌詞を忘れてもあんまり目くじらたてないで、歌詞を見ながら歌うのも、過去の自分という他人が書いた歌詞に毎回新しく触れながら、できれば毎回新しい驚きを持って、歌うのも美しいじゃあないですか、ねえ?という話です。

しかし過去と現在の自分を繋ぐのは他人の目だとしても、現在と未来の自分をつなぐのは自分の心だけだと思わなくもないな。なんか救いがある話になってきた。続きはまた暇な時考えよう。

全文の歌詞はこちらで!